The 
Mathematical Brain
 
 
はじめに

第一章 数で考える
第二章 数えるということ
第三章 生まれついての能力
第四章 脳のなかの数
第五章 手、空間、そして脳
第六章 大きいと小さい
第七章 数の得意と苦手
第八章 家庭の数学、学校の数学
第九章 難しい数とやさしい数
第十章 数学恐怖症を克服するには
 
 
 
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Shufunotomo
 


The Mathematical Brain
 
Brian Butterworth
 
Brian Butterworth
 
Japanese Preface
  

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日本語版に寄せて
 



   この本が日本語で出版されるのは、私にとって二つの意味でうれしいことです。私は長年、神経心理学の立場からさまざまな言語に関する読字障害を研究しています。日本語も対象のひとつですが、最近、字を読むことと、脳や遺伝子の関係に新たな手がかりを与えてくれる珍しいケースに出会いました。それは、英語を話す両親のあいだに生まれ、日本の学校に通っているバイリンガルの少年です。彼は重い読字障害でした。驚いたのは、その障害が片方の言語にしか見られなかったことです。日本語を読むのはまったく問題ないのに、英語を読もうとすると、日本人の級友よりできないのです。英語を流暢にしゃべれるにもかかわらず! この少年のような読字障害は、実はイギリスでは珍しいものではないのですが、まったくと言っていいほど知られていません。というのも、読字障害の研究では、もともとアルファベット文化圏を中心に発達してきたということもあって、ひとつの種類の文字が読めなければ、ほかのどんな文字も読めないはずだという先入観があるからです。けれどもこの少年のケースは、そうした認識をくつがえすものです。

   また、これは私たちの仮説から導きだせることでもあるのですが、日本語の文字とアルファベットでは、脳の処理のしかたがちがうのではないかということも考えられます。

   もうひとつ、日本語は序数詞の体系が独特で、数を表す単位も驚くほど豊富です。英語を使う人間にとって、対象が自動車か人間、あるいはウサギかによって数の表現が変わってくるのは信じられない話です。数の認識について書かれたこの本が、日本のすばらしい序数詞を再認識する手段になり、その研究がさらに進むことを願ってやみません。

   日本で共同研究をしている私は、本厚木から電車に乗ったとき、イギリスではめったにお目にかかれない光景に出会いました。立っている乗客がつり革片手に熱心に本を読んでいるのです。しかし私の本は、立って読むには分厚すぎます。電車が新宿駅のホームに入るころ、私は決めていました。日本語版は、退屈なところをカットして、もっと短くしようと。こうしてできあがったこの本は、立ったままでも、もちろん座って読んでもおもしろいはずです。

 


Japanese Preface
 

   私は数学者ではない。さらに言うなら、数学や計算がすごく得意というわけでもない。

  それでも私は毎日、数を使って生活している。ただ、いつもメガネをしていると、かけていること を忘れてしまうように、数もあまりに身近なせいで、ぜったい必要なものという実感が湧かない。

  いま私は、今朝届いた朝刊の一面を眺めている。とくに変わったところのない、ふだんどおりの紙 面だ。新聞の定価は四五ペンス、発行日は一九九八年六月十二日。スポーツは二八面。

   第一面にはどんな記事があるだろう。大蔵大臣は、年間四十億ポンドずつ、三年間で一二〇億ポン ド相当の国有資産を売却すると発表した。

   また、公務員の給与が二・二五パーセント引きあげられるという記事もある。政府投資はGDP比 で〇・八パーセント減少し、二〇〇二年までのインフラ投資額は実質一四〇億ポンドになる見通し。 公共部門の支出は二・七五パーセント増加で、政府はその資金として休眠資産を売却し、年間一〇億 ポンド調達する。

  ベストセラー作家キャサリン・クックソンが、九二歳の誕生日を十三日後に控え、九一歳で死去。 一九五〇年以来、年二冊のペースで発表した作品は八五作にのぼる。発行部数は合わせて一億部に達 し、金額にして一四〇〇万ポンドを稼ぎだしたことになる。夫のトムは現在八七歳。関連記事は二〇 面に。

   一九九三年、スティーブン・ローレンス(十八)が殺害された事件で、二〇歳から二二歳の男性五 人が証人として法廷に召喚された。残された母親は現在四五歳。

   ケーブル・アンド・ワイヤレス社からのお知らせ。九月末まで、土曜日の通話料金を一律五〇ペン スに据えおきます。詳しくは0800-056-8182まで。

   人種差別がらみの残虐な殺人事件の詳細は第三面。その他のセクションは、第五面の家庭欄にはじ まって、第一五、一七、一八、二〇、二三、二四、二九面と続き、第三一面はラジオ欄。この新聞の バーコードは9770261307354。

   たった一ページにこれだけの数が出てくるが、それでも朝食を食べながら読みおえるのに、五分と かからない。ワールドカップの試合結果とクリケットのスコアを知るためにスポーツ面を開くと、そ こはもう数字だらけである。

   こうして新聞をひと通り読みおわる三〇分間に、私の目にはおよそ三〇〇個の数が飛びこんでくる。 それだけではない。部屋には周波数九三・五メガヘルツのラジオ4も鳴っているから、音としての数 も耳から入ってきて、そのうちいくつかを意識的にとらえている(残りは完全に素通りかというと、 そうではない)。そして私は、時計を見る - 時計の針は二つの数を指している。そろそろ娘のアン ナのためにベーコンを焼いてやらなくては - 数は三枚と決まっている。キッチン用品についている デジタル時計は、私が新聞を読み、ベーコンを焼いているあいだに、三五分が過ぎたことを教えてく れる。アンナの姉エイミーの修学旅行費用は七〇ポンド。エイミーを学校に送っていく途中、前を通 った家の数は七三軒。すべての家に番地が割りふられ、自動車にもナンバーがある。以上はすべて出 勤前の話で、職場に着いたらもっとたくさんの数と接することになる。

  ごく大ざっぱに計算すると、私が一時間に処理する数はおよそ一〇〇〇個ぐらいだろう。一日にし て一万六〇〇〇個、一年ではおおよそ六〇〇万個になる。スーパーマーケットや銀行、ブックメーカ ー(賭け屋)、学校、株や外国為替を売買するディーリングルームなど、数を扱う仕事では、もっと 多くなるはずだ。

   こうした数はすべて、何らかの体系のなかに組みこまれている。時間に関しては、一日が二四時間 であり、一時間が六〇分と決まっている。何月何日という日付は、西暦の一年一月一日を起点にして 数えたものだし、人が死んだときの年齢も同じやりかたで数える。大蔵省の統計は、会社関連や成長 率など多くの統計値をもとにしており、統計値の根拠になるのは、公共機関や民間企業、個人が毎日、 毎週、毎月行なっている取引である。亡くなったミセス・クックソンご本人をはじめ、彼女の本を出 す出版社、印刷所、クックソンの会計士、PR会社も、みんな数に関わっている。

   そして登場する数の種類もいろいろだ。新聞の一面には、整数と少数が登場する。多い少ないを表 すために数を使うとき、その対象は五人の男性という具体的なものもあれば、九一年という形のない ものもある。五〇ペンス、一〇万ポンド、一四〇億ポンドというお金だったら、その気になれば見た り触ったりできるだろう。

   また、数字は順番を表すときにも使われる。クックソンの享年九二とか、六月一二日といった日付、 本の一五ページといった場合である。そのいっぽうで、並んでいる数の大きさや並びかたに、規則性 のまったくないものもある。電話番号やバーコードがそれにあたり、この場合の数はただの記号でし かない。

   私たちの日常生活は、数なしでは成りたたない。しかし私がそのことに気づいたのは、神経心理学 者として、数を扱えない人たちを研究するようになってからである。なかでも記憶に残っているのは、 ホテル経営をしているというイタリア人女性だった。帳簿づけもしていた彼女は、脳卒中で倒れてか らというもの、四より大きい数字がまるで理解できなくなってしまった。買い物をしたり、電話をか けたりと、以前なら当たり前のようにできていたことが、まったく不可能になったのである。

   彼女のほかにもうひとり、知性豊かで学位を持ち、専門職についている青年もいた。彼はコンピュ ータを使った統計処理を得意としていたが、日常的な場面では簡単な数を扱うことができず、とりわ け計算がからきしだめだった。しかも彼の場合は、それだけではなかった。たいていの人は、五個ぐ らいまでのものなら、いくつあるか数えなくてもぱっと見てわかる。しかしこの青年は、たった二個 のものでも数えなくてはならなかった。これは教育のせいではない - まったくちがう次元の話なの である。

   この青年に欠けていたのは、ひと目で数を認識する能力だった。しかし正常な人なら、生まれたば かりで数えかたさえ知らないときから、この能力を持っている。そのことは、一九八〇年代ごろから 明らかになってきた。私は長女が生まれたとき、それを実際に確かめてみた。紙おむつの入っていた ダンボール箱に、生後四週目の長女を座らせ、ゴムの乳首をあてがう。そしてコンピュータ画面に一 〜四個の緑色の長方形を表示し、彼女が乳首を吸う強さで反応を調べた。乳首を強く吸えば、それだ け関心が高いことになる。実験は快調なすべりだしだったが、被験者である長女が途中から乳首に見 向きもしなくなったので、中断を余儀なくされた。

   このとき、漠然とではあるが、ひとつの考えが私の脳裏をよぎった。ひと目で数を把握する能力が 生まれながらに備わっているのなら、何らかの障害のせいで、その能力が正常に発達しないこともあ るのではないか。それは言ってみれば「数の色覚異常」のようなものではないだろうか。

   長女の実験から一〇年たって、たった二個のものさえいちいち数えなければならない青年と出会っ たとき、あのとき考えたのはひょっとしてこのことではないかと思いあたった。ここまで来れば、脳 や遺伝子との関連に発想が飛ぶのは簡単な話だ。正常な人間の脳には、数の処理を専門に扱う回路が ある。回路が作られることは、生まれる前から遺伝子で決まっている。ではその回路は、最初から数 の処理だけが目的だったのか、それとも別目的の回路が、数を処理する必要に迫られて転用されたの だろうか?

   色覚はすべての人に備わっている。特定の遺伝子に障害がある人は別として、誰もが世界を色つき で見ている。しかし数はどうだろう? 特定の遺伝子に障害がある人は別として、誰もが世界を数で とらえているのだろうか? もし、数で考えることがあとから学習するものだとしたら、教わってい ないために数を使えない人がいるはずだ。

   技術が進み、商取引も電子化してきた現代社会では、数を扱う能力が欠かせない。教育制度におい ても、数を使いこなすことが重要な柱になっている。

   では、技術も未発達で、商取引もほとんどなかった石器時代の社会は、どうだったのだろう? そ のころの人間も、数字を使い、数を数えていたのだろうか? 数を扱う能力は、ほんとうにすべての 人に備わっているのだろうか?

   その答えを突きとめることは、見た目ほどやさしい話ではない。まず、社会のなかで数が使われて いるかどうかは、数を示す表現の有無で判断しなくてはならない。英語には数を示す単語があるし、 数がいくら大きくなっても言葉で表現できるようになっている。ところがオーストラリア先住民族で あるアボリジニの言語には、「ひとつ」「ふたつ」「たくさん」という言葉しかない。彼らは狩猟と採 集を生活の糧としており、他人とものをやりとりする機会はほとんどなかった。しかし、だからとい ってアボリジニはまったく数を使わず、世界を数でとらえていないと断言できるだろうか。彼らもい までは、西欧の貨幣文化をはじめ、数を表す英語の単語や、数字に接している。では時間的な条件を つけて、「西洋文明に触れる前の」アボリジニはどうだろう。彼らは数を使っていただろうか? も し使っていなかったとすれば、数を扱う能力が生まれつきすべての人に備わっているという仮説が成 りたたなくなる。

   数を扱う能力を誰もが等しく持っているという主張には、すぐに反論が起こる。なぜなら、同じ社 会のなかでも、数を扱うのが得意な人もいれば、数が苦手な人もいるからだ。数を担当する脳の回路 が生まれつき同じなら、色を識別したり、言葉を使う能力と同様、数を扱う能力にだって個人差はな いはずだ。しかしそれは、服装のカラーコーディネート、家具選びやインテリアのセンス、あるいは 文章や詩を作る能力がみんな同じ、と主張するようなものだ。基礎能力は生まれつきで普遍的なもの だが、成長してからその能力がどこまで発揮されるかは、あとで身につけた教育や経験がものを言う。

   では数の基礎能力とは何だろう? それを知るために、生まれたばかりの赤ん坊が、誰にも教わら ず自然にできることに着目しよう。赤ん坊は、色を見わけるのと同じように、数のちがいも認識して いるだろうか?

   もうひとつの手がかりは、誰でもすんなりと理解できる数の概念を調べることだ。たとえばうちの 娘たちの場合、1/2、3/4、7/8といった真分数は簡単に理解したが、3/2、5/4、8/ 7という仮分数にはてこずっていた。分数のほかにも、確率はどうも苦手という人は多いし、微分や 積分になるとちんぷんかんぷんという人もたくさんいる。では、素直に理解できる数の概念は、私た ちが生まれつき持っているものだろうか。それとも早いうちに習ったり、上手に教えてもらったおか げで、苦労しないで身についたのだろうか?

   いま、学校での数学教育には不安が渦巻いている。子どもが数学でつまづくと、本人はもちろんだ が親もつらい思いをする。科学技術がどんどん高度になり、数が幅をきかせる社会で生きる人間が、 数に適切に対応できないことは国家の損失でもある。だが、どんな人でも生まれつき持っている数の 能力に着目し、それを手がかりに指導していけば、数の知識はもっと楽に理解できるようになるかも しれない。

 

   この本を書くにあたっては、多くの人の協力を得た。まったくの門外漢が投げかけた素人まるだし の質問に、専門家が忙しい時間を割いてていねいに答えてくれたことに感謝する。ここではとくに、 ジーン・クロッツ、ゴードン・コンウェイ、ジョゼフィン・フラッド、レス・ハイアット、ライス・ ジョーンズ、デボラ・ハワード、アレグザンダー・マーシャック、カレン・マコーム、バート・ロバ ーツ、ロバート・シェアラー、スティーブン・シェナン、デヴィッド・ウィルキンスの名を挙げる。 また、脳の数処理を研究している多くの優秀な科学者たち、ボブ・オードリー、リーザ・シポロッ ティ、マーガレット・ディレイザー、フランコ・デネス、マーカス・ジャキント、ルイザ・ジレッリ、 ジョンキーア、カルロ・セメンツァ、エリザベス・ウォリントン、マーコ・ゾルジとの共同作業から も、はかりしれない恩恵を受けた。この本は欧州委員会とイギリスのウェルカム・トラストの後援を 受けている。

   次に、議論を通じて多くの示唆を与えてくれた方々を紹介する。マーク・アシュクラフト、ピータ ー・ブライアント、ジェイミー・キャンベル、マリネラ・カッペレッティ、アルフォンソ・カラマザ、 ローレント・コーエン、リチャード・コーワン、スタニスラス・デハーネ、アン・ダウカー、カレ ン・フーソン、ランディ・ガリステル、ロチェル・ゲルマン、アレシア・グラナ、パトリック・ハガ ード、トム・ハイト、ジョー=アン・ルフェーヴル、ジュゼッペ・ロンゴ、ダニエラ・ルカンジェリ、 ジョージ・マンドラー、フェレンス・マートン、マイケル・マクロスキー、マリー=パスカル・ノエ ル、テレジーニャ・ヌネス、マウロ・ペゼンティ、マヌエラ・ピアッツァ、ローレン・レズニク、ソ ニア・シアマ、シャビエル・セロン、ティム・シャリス、デヴィッド・スクース、ファラネー・バル ガ=カデム、ジョン・ホエーレン、カレン・ウィン、そして故ニール・オコナー。

   またイタリアのトリエステで、国際高等学習上級学校が主催した「数の概念と簡略算数」と題され たワークショップも、この本を書くうえで参考になった。ワークショップの議長を努めたのは、ロン ドン大学認知科学の学部長であるティム・シャリスである。ショーン・ホーキンスとマーティン・ヒ ルは、図書館でのリサーチを担当してくれた。サイコロジー・プレスが刊行している学術誌『数学認 知』の現編集長は、最新の研究成果を折に触れて教えてくれた。

   哲学者マーカス・ジャキントは、私のアプローチに示唆を与えてくれただけでなく、原稿にすべて 目を通して、鋭く有用な助言をしてくれた。デザイナーであり映画制作者でもあるストーム・ソーガ ーソンは、この本のアイデアをほかのメディアで活用する手助けをしてくれたし、その際には筆者に なりかわって、読者が引きこまれる明快な文章を書いてくれた。

   そして私にいちばんアイデアをくれたのは、二人の娘エイミーとアンナである。彼女たちのおかげ で、子どもが数の概念を身に付けていく過程を、身近に知ることができた。また、彼女たちが自分の 頭脳活動のついて語った言葉が、どれほど役に立ったかわからない。そして私のパートナーであるダ イアナ・ローリラードの貢献たるや、あまりに多大で多岐にわたっているので、具体的に述べること はできない。もしこの本につまらないことが書いてあったとしても、それが彼女の発想でないことだ けはたしかである。

   リーザ・シポロッティ、マーガレット・ディレイザー、ノラ・フレデリクソンは原稿を厳しく読み こんでくれた。マクミランでこの本の企画を通したクレア・アレグザンダーは、初代の担当編集者と して最初の二章を読み、助言をしてくれた。同じくマクミランのジョージナ・モーレイと、マイケ ル・ロジャーズ博士からは、多面的かつ細かい意見をちょうだいした。アメリカでの出版元フリー・ プレスのスティーブン・モロウは、本全体の構成でアイデアを出しただけでなく、細部にわたって意 見を出してくれた。本文全体の編集は、几帳面なジョン・ウッドラフが担当してくれた。

   最後になったが、私のエージェントであるピーター・ロビンソンがいなかったら、この本は誕生し なかっただろう。タイトルに「数学」という言葉が入る本はぜったい受ける、という彼の持論は心強 かったし、この企画がいかに有望か、出版社に熱弁をふるってくれたのも彼だった。

   私にとってこの本の執筆は、人間は世界をどうとらえているのかというテーマを携えながら、歴史、 人類学、心理学、神経科学の世界をめぐるすばらしい知の冒険だった。読者のみなさんも、この冒険 の旅を満喫してもらえば幸いである。

  

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